「真我」とは何か?そこには日本の神社との繋がりがあった!?

真我とは、「真の自我」、

つまり、「本当の自分」です。



「本当の」などと言うと、

「今の自分は何なの?!」という考えが浮かびますよね。

しかしこれが、インドのヨーガ哲学のテーマなのです。



「私は誰か?(Who am I?)」は、

聖者マハーリシ・ラーマナの有名な言葉です。



私達は気がついた時から、

母親におんぶされたり、抱っこされたりした「私」がいました。

そしてある時、「私」という物を意識し始めます。

好き嫌いの感情も湧いてきたり、

積極的な自分がいたり、

億劫な自分がいたり、

楽しい自分、

悲しい自分、

怒っている自分、

考えている自分、

迷っている自分、

自信満々の自分、

あれが欲しいこれが欲しいと求める自分など、、、

いろいろな「私」が心の中に住んでいます。

自己紹介する際には、

名前、年齢、職業、住まい、趣味や特技などを伝えますね。

これらは「私」の特徴であり、生まれてから得たものです。

しかしながら、

「私」自身を表しているわけではありません。

それらは常に変化する「私」の表面的な側面であり、

純粋な「私」には感情も名前もない、

とヨーガでは語られています。



精神的な機能は、

お母さんのお腹の中で細胞から人間の体を形作るときに得たものであり、

誕生後に獲得したものです。



本当の「私」というのは、

後天的なものではなく、先天的に存在するもの。

それを「真我」と呼びます。

そしてヨーガでは、

それを「純粋な意識(プルシャ)」と表現します。




真我の体験「サマーディ」とは?


ヨーガは、「サマーディ」を経験することを目的としています。

サマーディとは、

1つの対象に意識が「完全に集中」し、自分を忘れた状態です。


よく世間では、集中することを

「ゾーンに入った」とか、 「ランニングハイ」と表現する方もいますね。 ヨーガの「サマーディ」は、

体の動きを止め、

五感を制御し、

瞑想が深まり、

心が静かに落ち着いた中で起こります。


サマーディというサンスクリット語を

「三昧(至福が満ち溢れるさま)」や

「悟りの境地」「苦悩からの解放」などと

表現する方もいますが、

「没我・没頭」とも訳されます。



「没我」は、

まさしく「我」を忘れた状態、無心の境地です。



サマーディにもいくつか段階があります。

一番深いサマーディでは、

心の動きがストップし、

自分の意識も消え、

同時に意識を向けている対象も消えます。

その状態では、

生まれる前から存在する本当の「私」の意識のみが

存在していると云われます。

「真我(プルシャ)」と神社の意外な共通点とは?!


日本にある神社の拝殿には、

御神体として「鏡」が置いてありますね。

なぜ、鏡が置いてあるのでしょう??


実は、

「か・が・み」の真ん中の「が=我」をとると、「かみ=神」になります。

「我」を手放し、

自分の内側の真ん中にある

神聖な部分(神)と繋がり、 いのり(=意志に乗ること)を捧げる為に

「かがみ」が置いてあるのだそうです。



つまり、「カガミ」から、「ガ=我」と取り払うことで、

「本当の自分=真我」を思い出し繋がりましょう、と言う意味なのです。



鏡は「天の心」を映し、

「幸せな人々」を映し出すものと云われています。



「我」があることが日常になると、それらが見えにくくなり、

真我=本当の自分が観え辛くなってしまいます。



人間である以上、「我」を完全に捨て去ることはできませんし、

生きていく上でなくてはならないものだとも思います。



ですが、肉体をもつ私たちであるからこそ

この世で出来ることがあります。

真我を思い出すこと。

それは、真我=「本当の自分」を歩んでいくことに

繋がっていくのだと私は思っています。



ヨーガ哲学も、日本の文化と繋がると

より深まりやすい部分があると私は感じています^^


遠いようでどこか似ている

私たちの日本文化とインドのヨーガの哲学。

時々照らし合わせながら

楽しんで想像を膨らませていただける古典ヨーガを

今後もお届けしたいと考えています♪



哲学や体のことなど、

たくさん言葉にしていきたいと思いますので、

更新したブログを時々のぞいてただければ嬉しいです^^





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